こんにちは。
4月も後半に入り、急に気温が上がってきました。着るものや室温の管理が難しい季節ですね。
みなさんは『見当識』という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
見当識はご存じなくても、『見当』に関しては「見当をつける」とか「見当違いだ」とか日常的に使っていますね。意味は同じです。
英語表記ではorientationと言いますが、日本語のカタカナ表記のオリエンテーションになるとちょっと違う意味で使われています。
今回はこの『見当識』について考えてみます。
『見当識』とは時間・場所・人を認知する機能(能力)という意味です。
今日は何月何日で、ここはどこで、私(あなた)は誰か、ということを認知する力です。医療ではこれを意識障害の評価や認知機能の評価に使用しています。
意識障害が発生したり、認知機能が低下したりすると、この見当識が低下します。均等に機能低下が起こるわけではなく、もっともダメージを受けやすいのは時間の認知機能です。場所や人の認知より、時間の認知の方がそもそも難しい(高度)ということなのでしょう(注:今日の日付がとっさに言えないからといって見当識障害だ!というのはちょっと性急にすぎます)。
時間の認知機能というのは今日が何月何日かがわかるということではなく、昨日の次が今日であり今日の次が明日である、ということを認知することです。言い換えれば、時間が均等に流れていくことを理解すること、です。
原因は何であれ、人生のターミナル期になると見当識の障害・低下が発生します。多くの場合場所や人の認知機能は維持されますが、時間の認知機能は必ず低下すると言ってもよいでしょう。これを悲しいこと・残念なこと・つらいことと捉える必要はないと思っています。むしろ時間の認知機能が低下することによって、死の恐怖が薄らぐ・解放されるとも考えられます。
自分の体が弱ってきて最期が近づいてきたときに、時間の認知機能があまりにも正確だと、未来のこと(一年後のこと、一か月後のこと、一週間後のこと、明日のこと..)を悲観して苦痛や恐怖を感じることでしょう。その様子を傍で見ている家族さんも心を痛めます。
ターミナル期が進むとうとうとしている時間が長くなります。そして、ふと目を覚ました時に、場所と人の認知機能が維持されていれば、家にいることもわかるし家族や友達とお話しすることもできます。時間の認知機能が低下していれば、昨日のこと(過去のこと)を後悔することもないし、明日のこと(未来のこと)を恐怖することもありません。ふと目を覚ましたその瞬間を最も大切にすることができます。
これはもしかしたら死への恐怖を打ち消すために本能に仕組まれた機能なのかもしれません。
大切な人を見送るとき、その方が時間の認知機能が低下していたら、ほっとして安らかな気持ちになっていいのではないでしょうか。そんな安らかな気持ちで見送れたらいいと思っています。